2013年10月

ヴェロニカマーズシーズン2 第一話を見た

 ヴェロニカマーズ(Veronicamars)のシーズン2第一話を見た。ニコニコポイントがなく、且つ有効な広告はなかった。相変わらずも楽天のアプリはポイントが何故か貯まらない。
 ところで、本編なのだがシーズン2のが凄く波乱で面白そうだった。セレブVS非セレブで抗争してる。ヴェロニカマーズのセレブはゴシップガールのセレブより金持ちではない。ローガンやルークはチャックバスと比べる間でもない男だ。加えて貧民と言うか、非セレブ層もそうだ。非セレブな故はプール付きの家に住んでないとかで、日本だと馬鹿にされる程に貧しいわけではないと思う。TheOCのライアンなんてもう過酷な中東の最前線みたいな地域育っていて、チノが本当にそんな所かは知らないが、ヴェロニカマーズが現実的なのかもしれない。
 また、所謂カースト外であるバイカーが出てくる。ヴェロニカもシーズン1は不思議少女枠でカースト外だったのかなあ?ともかく、珍しい。

Xenotransplantation 人類の不老長寿への活路

 興味深い単語を知った。Xenotransplantation、意味は異種間臓器移植だ。
 前に17世紀のフランスでジャン=バティスト・デニという医師が羊の血液を輸血に使ったという話を別の所で知っていた。それでは、拒絶反応により成功していない。これは、輸血自体が確立される前だったが、後に結局、動物血は溶血反応を起こす事が分かっている。
 勿論、異種間臓器移植ともあれば、比にならないほどのリスクがあるだろう。たが、まず、理論的に可能なのか気になった。今日読んだ学校の教科書載っていた英文には遺伝子改良した豚を使う事で拒絶反応を減らせるとあった。
 他に、ドナーとなる動物がもつバクテリアやウイルスにより感染症を引き起こす可能もあると言う。だが、人間に必要な臓器が足りている現状がない以上、異種間臓器移植は興味深い手段だ。


 人は誰しも死ぬ。理由は様々だ。交通事故などのヒューマンエラーを除けば大抵は寿命と言うやつだ。何故、寿命が尽きるのかは誰 も分からない。細胞プログラム説や癌など仮説はあるけれども今のところ、その域はでない。昨年の山中伸弥教授がIPS細胞ノーベル賞を取ったのは記憶に新しい。応用すれば、人工的に本人の細胞を利用した臓器を作れるかも知れない。が、技術の進展には世代を跨ぐ長い時間が必要だ。

 

 万一の時臓器移植待ちにしか頼る先がない未来と言うのも悲しい。かといって、臓器売買は違法だし、移植のためにクローン人間を作ると言った内容のSFがあったがもっと無理だ。動物の臓器を移植できるというのは簡易に取り組める寿命延長手段と成りうるかもしれない。
 ネットで調べた限りではできるとかできないとかあって正確なオリジナルのソースが見つからなかったが、要するに遺伝子改良された豚は使えるようだ。
 安易に行い、豚インフルエンザを変異させて人類に提供するのは好ましくないが、人工臓器やIPS細胞の発展を待ち望むよりかは人間の寿命延長として相応しい手段に思える

『十歳以前に読んだ本』 明治文豪の愛読史

 坪内逍遥の著書に 十歳以前に読んだ本 明治四十五年六月少年世界のために という本がある。これは、坪内が自分の少年時代に読んでいた本を紹介しているのだが、当時の読書週間を垣間見れる。

 まず、習わされた本として

実語経 孝経 大学 論語 を上げている。

 中でも実語経は特によくやらされたので覚えているとある。実語経は平安末期から明治初期まで初等教科書として扱われていた。江戸時代には寺子屋で修身書や習字本としても扱われていたようで坪内も書きまくったようだ。これだけは記憶に残っているらしい。


 孝経は中国の孔子と曽子の問答、大学は朱喜による儒学の階梯、論語は言わずもがな西文によって日本に伝来した儒学書。

 これらは無意識のうちに血肉となって当時の人の体に滑り込んでいるのだろう。顧みると今の小学生が十歳で読むとか有り得ないレベルたが。漢語だからとかではなく、儒学書だからだ。昔は教養の質が高かったと見るべきか、またはそれしかしてなかったからだとでも言うか。後者だろうが、儒学書読んでる小学生とか居たら邪馬台国が発見されたレベルで驚く。

 また、百人一首も上げている。これは、小中学校あるいは高校でもやった人がいるかもしれない。

 君がため~とか音に聞く~とか何となく覚えている。というか、塾や学校で丸暗記するように強要された。今覚えば高校の古文まであれを全く理解してなかった。助動詞とか小中学校で習わなかったし、いっそあれはやらない方が時間の節約になっていいんじゃないか。教師や塾がひどかったのか、教育制度が酷いのか。ともかく、使わない言葉な以上もっと効率のいい学習スパンを国は提供したらいいのに。


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売柑者言 梶井基次郎の『檸檬』

 思考伝播というか、そういう感じの症状に悩まされる。8月頃にレポドパ使った反動が残ってるのか、でも13歳の時からこういうのはあるし。

 頭直しに梶井基次郎の檸檬を読んだ。 売柑者言という漢文を引用している。正確にはその中の鼻を撲つという表現を、だ。 売柑者言自体は詐欺を働く蜜柑売りがその行為を正当化しようとするまあ、人の生き方を問いかける話。鼻を撲つのは腐敗臭にやられるのだが、嗅覚が驚かされると言う意味での引用だろう。

 それにしてもこの話、全身を使ってこの上無いほど檸檬を褒め称えてる。ハイになったり落ち込んだりで忙しいのは分かった、のだがあらすじのが逆に分かりやすい。もっと高度な比喩に慣れないといけないのだろうか。

 何が凄いのか不明である。

『ヰタ・セクスアリス』ある意味で文学の考察

 「金井 湛は哲学が職業である。」もう、我が輩は猫である並に印象深い一文だ。


 この話は森鴎外によって文芸誌スバル(与謝野鉄幹や石川啄木らと供に、明星廃刊後に創刊)に掲載された小説だ。珍しく、原作がない。


wikiにはこんな一文がある。


芸誌「スバル」に掲載された当初は政府から卑猥な小説だと考えられ発禁処分を受けてしまうが、実際には性行為が直接描写されていることは無く、主人公の哲学者・金井湛(かねい・しずか)が、自らの性的体験について哲学的視点から考える内容となっている。


 正に、この本を卑猥というのは不当と呼ばざる得ない。前から疑問だったのだが、名作文学と呼ばれる物には官能チックな精神が盛り込まれてるものが多々ある。それは、近代文学のみに至らず現代文学なら村上春樹なんかもそうだ。中学生の時、名前だけは聞いたことのある作家だった。1Q84の発売でハルキストがどうたらとテレビで言ってるのを聞いて何やら凄い作家なんだなと関心を誘ったものだ。

 高校に入り、難しい本も読んで見たいと思った時に思い当たったのは村上春樹な訳だったが、海辺のカフカなんかを読んでも官能小説の一種にしか見えない。吉本ばななの方がまだインパクトのある内容な分面白い等と考えた。俗に文学と呼ばれない、SFなどの大衆小説なら特に性描写を伴わないのたが、文学作品、特に世に評される物は確実に性的内容を含む。これは作者の自己満足なのか、それとも、生命に取って切り離せない命題なのだろうかとか独りながら考えたのだが、当然答えはでない。意味は無いのかも知れない。

 金井も悩み、考えた。ウィタセクスアリスとはラテン語で性欲的生活を意味する。正に、性とは何かみたいなのが哲学者金井の興味の的だ。
 冒頭では、当時の世に出回ってる小説の批判があった。自然主義は性と結びつけすぎなのではないか、というか、作者が性欲が強すぎるのではないかという。森鴎外の浪漫主義として自然主義批判にも移るけれども、我が輩は猫であるを金井は面白いと思ったらしい。別に否定してるわけではない。テーマは性だ。何故、人はこれを主張するのか?
 長々と後は金井の回想録になる。ここはかなり小説的だ。思想的な帰結点が知りたければもう飛ばしてもいいくらいだが、物心がつく前から一人の個人の身近な感情を書き出してる。その癖、客観的でまるで性に溺れる様などない。
 後、自然と一人称と三人称が回顧の中で使い分けられ、それが癒着し気づかせない内に切り替わるのが凄いと思った。

 最後には金井の哲学者としての締めくくりがある。世間の人は性欲の虎を放し飼いにして、どうかすると、その背に騎って滅亡の谷に墜ちる。自分は性欲の虎を飼い慣らしている。との文がある。正に、彼はその通りな気がするのだが、それだけに斜に構えた目線で虎に乗ってる人を見ている。

 
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