「金井 湛は哲学が職業である。」もう、我が輩は猫である並に印象深い一文だ。


 この話は森鴎外によって文芸誌スバル(与謝野鉄幹や石川啄木らと供に、明星廃刊後に創刊)に掲載された小説だ。珍しく、原作がない。


wikiにはこんな一文がある。


芸誌「スバル」に掲載された当初は政府から卑猥な小説だと考えられ発禁処分を受けてしまうが、実際には性行為が直接描写されていることは無く、主人公の哲学者・金井湛(かねい・しずか)が、自らの性的体験について哲学的視点から考える内容となっている。


 正に、この本を卑猥というのは不当と呼ばざる得ない。前から疑問だったのだが、名作文学と呼ばれる物には官能チックな精神が盛り込まれてるものが多々ある。それは、近代文学のみに至らず現代文学なら村上春樹なんかもそうだ。中学生の時、名前だけは聞いたことのある作家だった。1Q84の発売でハルキストがどうたらとテレビで言ってるのを聞いて何やら凄い作家なんだなと関心を誘ったものだ。

 高校に入り、難しい本も読んで見たいと思った時に思い当たったのは村上春樹な訳だったが、海辺のカフカなんかを読んでも官能小説の一種にしか見えない。吉本ばななの方がまだインパクトのある内容な分面白い等と考えた。俗に文学と呼ばれない、SFなどの大衆小説なら特に性描写を伴わないのたが、文学作品、特に世に評される物は確実に性的内容を含む。これは作者の自己満足なのか、それとも、生命に取って切り離せない命題なのだろうかとか独りながら考えたのだが、当然答えはでない。意味は無いのかも知れない。

 金井も悩み、考えた。ウィタセクスアリスとはラテン語で性欲的生活を意味する。正に、性とは何かみたいなのが哲学者金井の興味の的だ。
 冒頭では、当時の世に出回ってる小説の批判があった。自然主義は性と結びつけすぎなのではないか、というか、作者が性欲が強すぎるのではないかという。森鴎外の浪漫主義として自然主義批判にも移るけれども、我が輩は猫であるを金井は面白いと思ったらしい。別に否定してるわけではない。テーマは性だ。何故、人はこれを主張するのか?
 長々と後は金井の回想録になる。ここはかなり小説的だ。思想的な帰結点が知りたければもう飛ばしてもいいくらいだが、物心がつく前から一人の個人の身近な感情を書き出してる。その癖、客観的でまるで性に溺れる様などない。
 後、自然と一人称と三人称が回顧の中で使い分けられ、それが癒着し気づかせない内に切り替わるのが凄いと思った。

 最後には金井の哲学者としての締めくくりがある。世間の人は性欲の虎を放し飼いにして、どうかすると、その背に騎って滅亡の谷に墜ちる。自分は性欲の虎を飼い慣らしている。との文がある。正に、彼はその通りな気がするのだが、それだけに斜に構えた目線で虎に乗ってる人を見ている。