文学

『十歳以前に読んだ本』 明治文豪の愛読史

 坪内逍遥の著書に 十歳以前に読んだ本 明治四十五年六月少年世界のために という本がある。これは、坪内が自分の少年時代に読んでいた本を紹介しているのだが、当時の読書週間を垣間見れる。

 まず、習わされた本として

実語経 孝経 大学 論語 を上げている。

 中でも実語経は特によくやらされたので覚えているとある。実語経は平安末期から明治初期まで初等教科書として扱われていた。江戸時代には寺子屋で修身書や習字本としても扱われていたようで坪内も書きまくったようだ。これだけは記憶に残っているらしい。


 孝経は中国の孔子と曽子の問答、大学は朱喜による儒学の階梯、論語は言わずもがな西文によって日本に伝来した儒学書。

 これらは無意識のうちに血肉となって当時の人の体に滑り込んでいるのだろう。顧みると今の小学生が十歳で読むとか有り得ないレベルたが。漢語だからとかではなく、儒学書だからだ。昔は教養の質が高かったと見るべきか、またはそれしかしてなかったからだとでも言うか。後者だろうが、儒学書読んでる小学生とか居たら邪馬台国が発見されたレベルで驚く。

 また、百人一首も上げている。これは、小中学校あるいは高校でもやった人がいるかもしれない。

 君がため~とか音に聞く~とか何となく覚えている。というか、塾や学校で丸暗記するように強要された。今覚えば高校の古文まであれを全く理解してなかった。助動詞とか小中学校で習わなかったし、いっそあれはやらない方が時間の節約になっていいんじゃないか。教師や塾がひどかったのか、教育制度が酷いのか。ともかく、使わない言葉な以上もっと効率のいい学習スパンを国は提供したらいいのに。


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売柑者言 梶井基次郎の『檸檬』

 思考伝播というか、そういう感じの症状に悩まされる。8月頃にレポドパ使った反動が残ってるのか、でも13歳の時からこういうのはあるし。

 頭直しに梶井基次郎の檸檬を読んだ。 売柑者言という漢文を引用している。正確にはその中の鼻を撲つという表現を、だ。 売柑者言自体は詐欺を働く蜜柑売りがその行為を正当化しようとするまあ、人の生き方を問いかける話。鼻を撲つのは腐敗臭にやられるのだが、嗅覚が驚かされると言う意味での引用だろう。

 それにしてもこの話、全身を使ってこの上無いほど檸檬を褒め称えてる。ハイになったり落ち込んだりで忙しいのは分かった、のだがあらすじのが逆に分かりやすい。もっと高度な比喩に慣れないといけないのだろうか。

 何が凄いのか不明である。

『ヰタ・セクスアリス』ある意味で文学の考察

 「金井 湛は哲学が職業である。」もう、我が輩は猫である並に印象深い一文だ。


 この話は森鴎外によって文芸誌スバル(与謝野鉄幹や石川啄木らと供に、明星廃刊後に創刊)に掲載された小説だ。珍しく、原作がない。


wikiにはこんな一文がある。


芸誌「スバル」に掲載された当初は政府から卑猥な小説だと考えられ発禁処分を受けてしまうが、実際には性行為が直接描写されていることは無く、主人公の哲学者・金井湛(かねい・しずか)が、自らの性的体験について哲学的視点から考える内容となっている。


 正に、この本を卑猥というのは不当と呼ばざる得ない。前から疑問だったのだが、名作文学と呼ばれる物には官能チックな精神が盛り込まれてるものが多々ある。それは、近代文学のみに至らず現代文学なら村上春樹なんかもそうだ。中学生の時、名前だけは聞いたことのある作家だった。1Q84の発売でハルキストがどうたらとテレビで言ってるのを聞いて何やら凄い作家なんだなと関心を誘ったものだ。

 高校に入り、難しい本も読んで見たいと思った時に思い当たったのは村上春樹な訳だったが、海辺のカフカなんかを読んでも官能小説の一種にしか見えない。吉本ばななの方がまだインパクトのある内容な分面白い等と考えた。俗に文学と呼ばれない、SFなどの大衆小説なら特に性描写を伴わないのたが、文学作品、特に世に評される物は確実に性的内容を含む。これは作者の自己満足なのか、それとも、生命に取って切り離せない命題なのだろうかとか独りながら考えたのだが、当然答えはでない。意味は無いのかも知れない。

 金井も悩み、考えた。ウィタセクスアリスとはラテン語で性欲的生活を意味する。正に、性とは何かみたいなのが哲学者金井の興味の的だ。
 冒頭では、当時の世に出回ってる小説の批判があった。自然主義は性と結びつけすぎなのではないか、というか、作者が性欲が強すぎるのではないかという。森鴎外の浪漫主義として自然主義批判にも移るけれども、我が輩は猫であるを金井は面白いと思ったらしい。別に否定してるわけではない。テーマは性だ。何故、人はこれを主張するのか?
 長々と後は金井の回想録になる。ここはかなり小説的だ。思想的な帰結点が知りたければもう飛ばしてもいいくらいだが、物心がつく前から一人の個人の身近な感情を書き出してる。その癖、客観的でまるで性に溺れる様などない。
 後、自然と一人称と三人称が回顧の中で使い分けられ、それが癒着し気づかせない内に切り替わるのが凄いと思った。

 最後には金井の哲学者としての締めくくりがある。世間の人は性欲の虎を放し飼いにして、どうかすると、その背に騎って滅亡の谷に墜ちる。自分は性欲の虎を飼い慣らしている。との文がある。正に、彼はその通りな気がするのだが、それだけに斜に構えた目線で虎に乗ってる人を見ている。

 

ノーベル文学賞の傾向

 ダイナマイトを発明したアルフレッドノーベル定めたノーベル賞の一つに文学賞がある。それがほしい。
 今まで、日本人では三島由紀夫や安部公房が近いといわれていたそうなのだが、彼らの話はどうしても官能小説にしか見えない。金閣寺なんか今やるとどう見ても障害者差別との避難は必須だろうし、箱男とか引きこもり書いてるだけじゃないかとも言える。それぞれ背景を知れば理解はできるけれども

川端康成のパブリックドメイン化

 青空文庫と言うサービスがある。タブレットが普及した今ではKindleやKobo等も同様の役割を果たしているが、著作権切れした作品を無料で電子書籍化して公開するというシステムだ。著作権切れした小説に限らず、漫画、音楽、映画等はパブリックドメインといいよくそういった形で簡単に手に入る物として出回る。小学生の読者感想文から社会人の暇つぶしまで幅広く役立つ物だ。

 しかし、著作権切れするのは小説だと作者の死後50年だと定められている。そのため、以外な人物の小説が読めなかったりする。先程、川端康成の伊豆の踊り子をKindleで検索してもどうも出てこない。いや、出てくるのだが、スタジオジブリのイラストレーターがカバーを手がけるとかで360円位するものを始め他も同じ位の値段のものが並んでいた。おかしいなと思いつつも、Kindleは別に青空文庫の全てをカバーしているわけではない。
 例えば、先日に坪内逍遙の小説神髄を探した時なんか出てこなかったが、青空文庫の方で検索すると出てきてた。
 そんなこともあったのでGoogleで検索してみると、面白いツイートが出てきた。


青空文庫で伊豆の踊子を読もうとして川端康成がまだ死後50年も経ってないことを知ったんだけど、「なんで早く死んでねーんだよ」とか凄い身勝手な考えになるので無料サービスもなんだかなぁというアレ

https://mobile.twitter.com/roro0000/status/233886967937527810

 これが、検索の二番目に出てきた。伊豆の踊り子 青空文庫 で検索したのだが、一番目は青空文庫のトップページ。伊豆の踊り子は著作権切れしてなかった。

 これは、川端康成がいつの人かよく分かって居なかったから間違えたのだが、全く根拠なく著作権切れてるのだろうと思っていたわけではない。
 伊豆の踊り子が書かれたのは戦前の1924年なのだ。これを教科書暗記の受験知識で頭の片隅にあったため、川端康成は流石に死んでる人だろうと思ったのだが、伊豆の踊り子は割と初期に書かれた話のようだ。しかも、川端の出生は1899年と世紀末で、ノーベル文学賞を貰ったのは1968年。死んだのは1972年とまだ切れてるはずがない。

 
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